正月休みも開け、もうすぐ1月も終わろうとしている頃――「朱莉、もうすぐ2月になるわね」お見舞いに来ている朱莉に母が声をかけてきた。「うん、そうだね。季節の流れって早いよね」朱莉は編み物の手を休める。「ねえ、朱莉。それって手編みマフラーでしょう?」「うん。そうなんだけど編み物って高校生の時以来だから中々進まなくて。やっぱり模様編みって難しいね」朱莉は恥ずかしそうに答えた。「その色だと、どう見ても男性用ね? ひょっとして翔さんに?」「う、うん」小さく頷く朱莉は……どことなく洋子には寂しそうに見えた。「大丈夫、きっと喜んで受け取ってくれると思うわ。お母さんもね、お父さんと付き合っていた時にマフラーを編んでプレゼントしたことがあるけどすごく喜んでくれたから」「でも手編みのマフラーって男の人から見たら重く感じるかなあ?」朱莉の物の言い方に洋子は違和感をいだく。(朱莉……。貴女と翔さんは夫婦なのよね? それなのにどうして重く感じるなんて言い方をするの? まだ一度も会わせてくれないし……)洋子洋子はずっと以前から翔に会いたいと思っていた。しかし朱莉にその事を告げると悲し気な顔をされたことがあり、それ以来尋ねるのをやめていたのだ。思わず、じっと我が娘を見つめる洋子の視線に朱莉は気付くと、慌てたように言った。「あ、ほら。例えば下手な編み目で身に着けるのが恥ずかしいようなマフラーを手渡されても、本当は使いたくないのに義務感から周りの目が恥ずかしくてもつけないといけないって思わせたら悪いかなって……。そう、それだけの事だから」朱莉の必死な弁明を洋子は複雑な思いで見つめるのだった—―****「ただいま……」ドアを開けると、部屋の奥からキャンキャンと嬉しそうに鳴きながらマロンが朱莉目掛けて飛びついて来た。「ウフフ……ただいま、マロン」マロンを抱き上げると、まるで尻尾がちぎれんばかりに降って喜びを現すマロンが朱莉は愛しくてたまらない。以前は寂しい思いで玄関のドアを開けて帰宅していたが、今では扉を開けるのが楽しみになっていた。マロンを抱き上げ、部屋の時計を見ると時刻は夕方の6時になろうとしていた。「いけない。病院で編み物に夢中になっていたから気付かなかったけどもうこんな時間だったんだね。ごめんね。すぐにご飯あげるから」マロンを床に降ろすと、マロ
ここは明日香と翔の部屋――「ねえ、最近どうしたの? 翔。何だかとても楽しそうに見えるけど?」お風呂から上がって来た明日香がテレビを見ながらおつまみとウィスキーを飲んでいる翔に声をかけてきた。「え? 何故そう思うんだ?」「だって、さっきスマホを見て笑顔になっていたからよ。ねえ……何を見ていたのよ? 私にも見せて?」明日香がテーブルの上に置いてあるスマホを素早く奪い去ってしまった。「お、おいっ! 明日香! 返してくれないか?」翔の慌てた様子に、明日香はピンときた。「何……? その態度何だか怪しいわね…。もしかして朱莉さんからなの? それとも別の女かしら!?」途端に明日香の顔が嫉妬に歪む。「違う! そんなんじゃないって!」翔は明日香からスマホを取り上げようとするとも、明日香はヒョイと避けて逃げてしまう。そして慣れた手つきでスマホを操作し……手を止めた。「あら? 何よこれは。動画?」「明日香!」翔の制止する声に耳も貸さず、明日香はファイルをタップした。途端に流れ出すトイ・プードルの動画……。「……」翔は頭を押さえた。「何よこれ。ただの子犬の動画じゃないの? これを見ていたの? あら……? 送り主は琢磨じゃないの。もしかして琢磨ってば犬を飼い始めたの?」明日香は翔に動画を見せながら尋ねた。「あ、い、いや。実は琢磨の知人が最近仔犬を飼い始めたらしくて……動画が送られてきたからと言って、俺にも送信してきたんだよ。その犬が……ちょっとかわいかったからつい見ていた。それだけの話だよ」(明日香……どうか、気付かないでくれ……!)翔は全身に冷汗をかきながら言う。「ふ~ん……。つまらない動画じゃないの。こんなもの見て楽しんでたの? だけど何もそんなに必死に隠そうとしなくてもいいじゃないの? 変な翔ね」明日香は少しの間、動画を見ていたが……突然眉が上がった。「ど、どうかしたのか? 明日香?」翔がためらいがちに声をかけた。「うううん、何でもないわ。はい、返すわ」明日香は翔にスマホを返す。「私もシャワー浴びてくるわ。そのあとお酒飲むから用意しておいてね」「あ、ああ。分かったよ」それだけ言い残すと明日香はバスルームへと消えて行った。その後ろ姿を見送ると翔は溜息をついた。(ふう……。危ないところだった。何も気が付いていないよな? でも今
2月10日――「出来た! ついに編めた!」朱莉は嬉しそうに手編みのマフラーを掲げた。藍色のアラン模様のマフラー。バレンタインのプレゼントとして翔を想って編んだ物だった。「時間がかかったけど、編めて良かった……」始めは笑顔でマフラーを見つめていた朱莉だが、やがて徐々にその表情は暗いものになっていく。「編んだのはいいけど、翔先輩受け取ってくれるかな……。そもそもどうやって渡せばいいんだろう?」明日香に頼むのは論外だし、郵便受けに入れるわけにもいかない。かと言って九条琢磨に頼む事だって出来るはずが無い。「馬鹿だな……私ったら。翔先輩がマロンを見にいつかこの部屋に来てくれるんじゃないかって期待していたんだもの。その時手渡せるかと思っていたなんて……」以前までは琢磨からマロンの動画を送って貰いたいとのメッセージが届いていたが。ここ最近はその連絡すら入ってこなくなっていた。(それとも、何かあったのかな?)朱莉は部屋にいるマロンを見た。さっきまでは元気よく遊んでいたが今は遊び疲れたのか大人しく眠っている。「翔先輩……もうマロンには興味がなくなっちゃったのかな……」溜息をつくと時計を見た。今の時刻は午前11時をさしている。まだお昼までは時間があるので朱莉は通信教育の勉強を始めることにした。編み物の道具を箱にしまい、先程編みあがったマフラーを再び見つめた。「きっともう渡す事は無理だと思うから、自分で使おうかな……。でもいつか渡せる日が来るかもしれないし……」そこで編みあがったマフラーを編み物道具が入った箱に一緒にしまうと、PCに向かって通信教育の勉強を始めた時。――ピンポーン突然チャイムの音が鳴り響いた。「え? 誰だろう?」慌ててモニターで確認して、朱莉は驚きのあまり声をあげそうになった。なんとそこに映っていたのは明日香だったのだ。「あ、明日香さん……? どうして……?」心臓がドキドキしてきた。朱莉にとって、明日香は招かざる客でしかない。だがドアを開けない訳にはいかった。直ぐに鍵を開けてドアを開けると、腕組みをしてブランド服に身を固めた明日香が不機嫌そうに立っていた。「こんにちは、明日香さん」緊張で喉がカラカラになりながらも朱莉は頭を下げた。「……こんにちは。何よ、いたんじゃないの。いるならもっとさっさと早く出て来なさいよ」ツン
「え……? あ、あの……副社長に許可をもらって年末から飼い始めた犬ですが……?」「何ですって? 翔が許可したって言うの?」明日香は怒りに震えた声で朱莉を睨み付けた。「は、はい……」「貴女ねえ……ふざけないでよ!」明日香が鋭い声を出した。その声の迫力に朱莉はビクリと肩を震わせえ、マロンも何事かと目を開けて明日香を見た。「ヒッ! ちょ、ちょっとこの犬、目を覚ましたじゃないの! 私の所に近付けないようにしてよ! 匂いが移るでしょう!?」「す、すみません!」朱莉は急いでマロンの側に駆け寄ると抱き上げた。その姿を露骨に嫌そうな目で見つめる明日香。「全く……よくも動物を平気で抱き上げられるわね。信じられない人だわ」明日香はまるで汚らしいものを見るような眼つきで朱莉とマロンを交互に見た。「……」朱莉は何と返事をしたらよいのか分からず、俯いている。「何故犬を飼うのに翔の許可だけ得るのよ? 普通私にも尋ねるでしょう? 第一ここは貴女の家じゃないのよ!? 貴女はここを出て行って、将来的には私と翔が暮らす場所なんだから! 何故家主である私に犬のことを言わなかったのよ!」ここは貴女の家じゃない……。改めて明日香に面と向かって言われ、朱莉の心はまるでナイフで突き立てられたかのようにズキリと痛む。「す、すみませんでした……。明日香さんに何の相談もせずに……。そ、それでは改めてお願いします。どうか私がここに住まわせていただいている間、この犬を飼わせていただけないでしょうか?」マロンをギュッと抱きしめ、懇願した。「はあ? 何を言ってるの! そんなの駄目に決まっているでしょう!」にべもなく却下する明日香。「そ、そんな……」「当り前でしょう! 私はねえ、動物が嫌いなのよ! 匂いが染みつくじゃないの! 貴女、動物の匂いが染みついた部屋で私達に暮らせと言うの? そんなに犬と暮らしたければこの家を出て行ってからにしてちょうだいっ!」「!」(そ、そんな……。マロンを…手放せと言うの……?)思わず目に涙が浮かびかける。「何よ? 泣けば済むと思っているの? 泣けば私が許すとでも? 冗談じゃないわ! 貴女の雇用主は私と翔なのよ? 従う義務があるのよ! 貴女と結んだ雇用契約書にもそう記されているはずでしょう! もし言う事を聞けないなら今まで貴女に支払った金額を全部返し
「ウウゥウウウ……」牙をむき、威嚇するかのように低く唸るマロン。「マロン? どうしたの?」今迄一度も誰かに唸り声をあげた事が無かったマロンが今、朱莉の腕の中で低く唸っている。「な、何よ……この犬……。チビのくせに人に唸るなんて……。だ、だから動物は嫌なのよ……ちょっと! 何とかしなさい! その犬を黙らせなさいよ!」明日香は後ずさりながら叫んだ。「マ、マロン! お願い。おとなしくして……?」朱莉はマロンの頭を撫でながら必死に宥める。「とにかく、一刻も早くその犬を何処かへやってちょうだい! 1週間以内に他へやらないと保健所に通報するわよ!」「そ、そんな……! たった1週間でなんて……! お願いです。絶対に部屋の中を汚したり、傷付けたりしませんので……せめて後1カ月は待って下さい!」朱莉は眼に涙を浮かべて必死で明日香に懇願した。「……うるさいわね! それなら私が今すぐ何処へなりとも捨ててきてあげるわよ! ケースに入れなさい!」その瞳はとても恐ろしかった。「そ、そんな……」「それにねえ、本当は翔だって動物は好きじゃないのよ! だけど貴女に気を遣って断れなかったのよ。翔は誰にでも優しいから。だから勘違いするのよね!? 自分にも望みがあるのでは無いかと!」それはまるで朱莉の翔に対する思いを見透かしたかのような言い方だった。「!」(そ、そんな……翔先輩。本当は動物が嫌いだったの……? だから犬の動画も最近は何も言ってこなかったの……?)けれど翔も明日香も動物が嫌いなら、朱莉が選ぶ道は一つしか無かった。「わ、分かりました……。1週間以内に何とかします……」朱莉はこぼれそうになる涙を堪えながら、震える手でマロンをギュッと抱きしめて返事をした。「話はそれだけよ。1週間も待ってあげるのだから感謝しなさい! ……それにしてもここはお客に対して飲み物すら出さないのかしら?」明日香はリビングの椅子に座ると睨みつけてきた。「あ! す、すみません! すぐに用意します!」朱莉は慌ててマロンをサークルに戻すと、洗面台に手を洗いに向かった。少したってリビングに戻ると何故か明日香の姿が見えない。「明日香さん?」部屋中を探しても明日香の姿はみつからず、玄関を覗いてみると明日香の靴は消えていた。「明日香さん……帰ったんだ……」次の瞬間。「ウッ……フッ
「はい……はい。そうなんです……。どうぞよろしくお願い致します…」朱莉は丁寧に挨拶をすると電話を切った。今電話をかけていた相手はマロンのトレーナーである。1週間以内にマロンを手放す様に言われた朱莉は必死でマロンの引き取り手を探していたのであった。(何としてもマロンを大切に育ててくれる人を探してあげなくちゃ……!)朱莉はマロンを明日香の命令で手放さなければならなくなったが、マロンには幸せになって貰いたかった。それが最後までマロンを守り切れなかった自分の罪滅ぼしだと思い、必死に引き取り手を探していたのだ。トレーナーの前にはマロンを購入したペットショップにも相談した。ペットショップの店員は朱莉の話を驚きながら聞いてくれたが最後は同情してくれて、こちらでも心当たりの人を当たってみますと言ってくれたのだ。 朱莉は最悪1週間で良い飼い主が見つからなければ、この際ペットホテルにマロンを預けて明日香から守る覚悟を決めていた。「さて……次はネットで探してみようかな……」朱莉はチラリとマロンの様子を伺った。今マロンはサークルの中で犬用おもちゃで遊んでいる。その愛らしい姿を見ていると、いつしか朱莉の目には涙が浮かんでいた。「駄目駄目、泣いてる暇があるなら……マロンの引き取り手を探さなくちゃ!」そして朱莉はPCを前に、必死で里親を探してくれそうなサイトを検索し続けた。――20時「ただいま、明日香。どうした? まだ食事を済ませていなかったのか?」翔は家政婦の作ってくれた豪華な食事がまだ手付かず状態でテーブルに並んでいるのを見て、リビングでテレビを観ている明日香に声をかけた。「ええ。大事な話があるから2人で一緒に食事をしようと思って翔を待っていたのよ」「そうか。それじゃ2人で食事しながら、その大事な話を聞かせてくれないか?」翔は久々に明日香と食事が出来るのが嬉しかった。「ええ。とても面白い話なんだから……」明日香は笑みを浮かべながたのだった――****「このサーモン料理、美味しいわね?」明日香は白ワインで調理したサーモンを口に運んでいる。「ああ、さすがは一流家政婦の女性だな」翔も満足そうに返事をする。「ところで明日香。話って言うのは何だ?」「実はね、今日少し用事があって朱莉さんの部屋へ行ったのよ」明日香はシャンパンを飲んだ。「な、何だって!?
「そうなの。餌も水もろくに上げていなかったし、平気であんな小さい子犬にしつけの為だと言って手を上げていたのよ? 子犬は可哀そうにキャンキャン鳴いていたっけ……」「そ、その話……本当なのか……?」翔の声は震えていた。「あら何よ? 私が嘘をついているとでも?」明日香が口を曲げる。「いや。しかし……見間違いと言うことは……?」「そんな訳無いでしょう!? とにかく朱莉さんは子犬を虐待していたのよ? だから私は言ったの。今から1週間以内にその子犬を手放しなさいって! さもなくば私から保健所に虐待の疑いがありますって通報するからと言ってきたわ」明日香は興奮を抑えきれないかのように激しい口調でまくし立てる。「あ、明日香。それ……本当のことなんだよな……?」翔は明日香の目をじっと見つめた。「ええ、そうよ。まさか朱莉さんがあんな人だとは思わなかったわ。人って本当に見かけじゃ分からないものね。でもきっとこれで朱莉さんも目が覚めて犬なんか飼うべきものじゃないって身の程を知ったんじゃないの? そう思わない翔? これで良かったのよ」まるで全てを見透かすような視線の明日香に翔は頷くしかなかった。 食事の終わった後、翔はリビングのソファの隙間に藍色の毛糸の編み物を見つけた。拾い上げてみるとそれはアラン模倣が美しい藍色のマフラーであった。(このマフラーは……ひょっとして……?)翔は片づけものをしている明日香の傍へ寄ると尋ねた。「明日香……このマフラーはひょっとして……」「あ……そ、それは……」明日香が言い終わらないうちに翔は明日香を抱きしめた。「ありがとう! 明日香。これは俺へのプレゼントなんだろう? バレンタインの」「え、ええ。そうなのよ。今日……やっと編み上がったところだったの」「手編みのマフラーなんてくれるの初めてだよな? 大切に明日から使わせてもらうよ」「そう……。大切に使ってね……」明日香は翔の胸に顔をうずめた――23時――「マロン……。今夜から一緒に寝ましょう? あなたと一緒にいられる時間はもうあと僅かしかないから」朱莉はベッドの中にマロンを入れると、そっと身体を撫でなた。結局今日は新しい引き取り手を見つけることは出来なかった。さらに追い打ちをかける出来事があった。朱莉が一生懸命編み上げた翔へのバレンタインのプレゼントのマフラーが消え
翌朝8時半――「おはよう。琢磨」先に出社して、デスクで仕事をしていた琢磨に朝の挨拶をしながら翔がオフィスに入って来た。「ああ、おはよう。翔」琢磨はPCから一瞬顔を上げ、翔の首元を見た。「あ、翔……そのマフラー……」「いいだろう? 実はこれ……」翔が言いかけた時、琢磨が笑顔で言った。「朱莉さんから貰ったんだろう? いい色合いじゃないか。お前の為に頑張って編んでいたからな」「……え?」琢磨の話を聞き、翔の顔が曇った。「何だ? どうかしたのか?」翔の顔が強張ったのを見て琢磨は怪訝そうに首を傾げた。「これ……朱莉さんが編んだのか?」翔はマフラーを手に取り、琢磨に尋ねた。「ああ。犬の動画が朱莉さんから送られてきた時、今お前の為にマフラーを編んでると言っていたからな。それに藍色のマフラーだと言っていたし。朱莉さんから貰ったんだろう?」「琢磨。もう少しその話……詳しく……」しかし、琢磨は椅子から立ち上がった。「悪い、翔。今日はこれから得意先の秘書と打ち合わせがあって、先方の企業に出向かないといけないんだ。話なら後にしてくれないか?」「あ、ああ……。分かった」琢磨はPCの電源を落とし、上着を着て鞄を持つと忙しそうに足早にオフィスを出て行った。琢磨がオフィスから出て行くと翔はハンガーにかけてあるマフラーをチラリと見た。「まさか……あのマフラーは朱莉さんが……?」(琢磨が社に戻ってきたら話を聞いてみるか)翔は溜息をつくと、PCを立ちあげた—―****「ふう……なかなか犬の引き取り手って見つからないんだな……」朱莉は溜息をついた。今朱莉は億ションに完備されているドッグランに来ている。ベンチに座ってじっとマロンの様子を眺める朱莉。マロンは楽しそうに芝生の上を走り回っている。愛らしいマロン……。だけどもうすぐお別れしなくてはならないのだ。マロンの姿を見ていると再び目に涙が浮かんできたので、慌ててハンカチを目に当てた。ドッグランにはマロン以外にもう1匹違う犬が遊びに来ていた。しかも偶然か、同じ犬種のトイ・プードルであった。始め2匹は離れた場所で遊んでいたが、いつしか2匹一緒になってお互いに走り回っていた。「え……? いつの間に仲良くなっていたんだろう?」朱莉は不思議そうにその光景を眺めていると、突然声をかけられた。「あの……すみ
「翔さん、落ち着いて下さい。医者の話では出産と過呼吸のショックで一時的に記憶が抜け落ちただけかもしれないと言っていたではありませんか。それに対処法としてむやみに記憶を呼び起こそうとする行為もしてはいけないと言われましたよね?」「ああ……だから俺は何も言わず我慢しているんだ……」「翔さん。取りあえず今は待つしかありません。時がやがて解決へ導いてくれる事を信じるしかありません」やがて、2人は一つの部屋の前で足を止めた。この部屋に明日香の目を胡麻化す為に臨時で雇った蓮の母親役の日本人女子大生と、日本人ベビーシッター。そして生れて間もない蓮が宿泊している。 翔は深呼吸すると、部屋のドアをノックした。すると、程なくしてドアが開かれ、ベビーシッターの女性が現れた。「鳴海様、お待ちしておりました」「蓮の様子はどうだい?」「良くお休みになられていますよ。どうぞ中へお入りください」促されて翔と姫宮は部屋の中へ入ると、そこには翔が雇った蓮の母親役の女子大生がいない。「ん? 例の女子大生は何処へ行ったんだ?」するとシッターの女性が説明した。「彼女は買い物へ行きましたよ。アメリカ土産を持って東京へ戻ると言って、買い物に出かけられました。それにしても随分派手な母親役を選びましたね?」「仕方なかったのです。急な話でしたから。それより蓮君はどちらにいるのですか?」姫宮はシッターの女性の言葉を気にもせず、尋ねた。「ええ。こちらで良く眠っておられますよ」案内されたベビーベッドには生後9日目の新生児が眠っている。「まあ……何て可愛いのでしょう」姫宮は頬を染めて蓮を見つめている。「あ、ああ……。確かに可愛いな……」翔は蓮を見ながら思った。(目元と口元は特に明日香に似ているな)「残念だったよ、起きていれば抱き上げることが出来たんだけどな。帰国するともうそれもかなわなくなる」すると姫宮が言った。「いえ、そんなことはありません。帰国した後は朱莉さんの元へ会いに行けばいいのですから」「え? 姫宮さん?」翔が怪訝そうな顔を見せると、姫宮は、一種焦った顔をみせた。「いえ、何でもありません。今の話は忘れてください」「あ、ああ……。それじゃ蓮の事をよろしく頼む」翔がシッターの女性に言うと、彼女は驚いた顔を見せた。「え? もう行かれるのですか?」「ああ。実はこ
アメリカ—— 明日いよいよ翔たちは日本へ帰国する。翔は自分が滞在しているホテルに明日香を連れ帰り、荷造りの準備をしていた。その一方、未だに自分が27歳の女性だと言うことを信用しない明日香は鏡の前に座り、イライラしながら自分の顔を眺めている。「全く……どういうことなの? こんなに自分の顔が老けてしまったなんて……」それを聞いた翔は声をかける。「何言ってるんだ、明日香。お前はちっとも老けていないよ。いつもどおりに綺麗な明日香だ」すると……。「ちょっと! 何言ってるのよ、翔! 自分迄老け込んで、とうとう頭もやられてしまったんじゃないの? 今迄そんなこと私に言ったこと無かったじゃない。大体おかしいわよ? 私が病院で目を覚ました時から妙にベタベタしてくるし……気味が悪いわ。もしかして私に気があるの? 言っておくけど仮にも血が繋がらなくたって私と翔は兄と妹って立場なんだから! 私に対して変な気を絶対に起こさないでね!?」明日香は自分の身体を守るように抱きかかえ、翔を睨み付けた。「あ、ああ。勿論だ、明日香。俺とお前は兄と妹なんだから……そんなことあるはず無いだろう?」苦笑する翔。「ふ~ん……翔の言葉、信用してもいいのね?」「ああ、勿論さ」「だったらこの部屋は私1人で借りるからね! 翔は別の部屋を借りてきてちょうだい。 あ、でも姫宮さんは別にいて貰っても構わないけど?」明日香は部屋で書類を眺めていた姫宮に声をかける。「はい、ありがとうございます」姫宮は明日香に丁寧に挨拶をした。「それでは翔さん、別の部屋の宿泊手続きを取りにフロントへ御一緒させていただきます。明日香さん。明日は日本へ帰国されるので今はお身体をお安め下さい」姫宮は一礼すると、翔に声をかけた。「それでは参りましょう。翔さん」「あ、ああ。そうだな。それじゃ明日香、まだ本調子じゃないんだからゆっくり休んでるんだぞ?」部屋を出る際に翔は明日香に声をかけた。「大丈夫、分かってるわよ。自分でも何だかおかしいと思ってるのよ。急に老け込んでしまったし……大体私は何で病院にいたの? 交通事故? それとも大病? そうでなければ身体があんな風になるはず無いもの……」明日香は頭を押さえながらブツブツ呟く「ならベッドで横になっていた方がいいな」「そうね……。そうさせて貰うわ」返事をすると
琢磨に礼を言われ、朱莉は恐縮した。「い、いえ。お礼を言われるほどのことはしていませんから」「朱莉さん、そろそろ17時になる。折角だから何処かで食事でもして帰らないかい?」「あ、それならもし九条さんさえよろしければ、うちに来ませんか? あまり大した食事はご用意出来ないかもしれませんが、なにか作りますよ?」朱莉の提案に琢磨は目を輝かせた。「え?いいのかい?」「はい、勿論です。あ……でもそれだと九条さんの相手の女性の方に悪いかもしれませんね……」「え?」その言葉に、一瞬琢磨は固まる。(い、今……朱莉さん何て言ったんだ……?)「朱莉さん……ひょっとして俺に彼女でもいると思ってるのかい?」琢磨はコーヒーカップを置いた。「え? いらっしゃらないんですか?」朱莉は不思議そうに首を傾げた。「い、いや。普通に考えてみれば彼女がいる男が別の女性を食事に誘ったり、こうして買い物について来るような真似はしないと思わないかい?」「言われてみれば確かにそうですね。変なことを言ってすみませんでした」朱莉が照れたように謝るので琢磨は真剣な顔で尋ねた。「朱莉さん、何故俺に彼女がいると思ったの?」「え? それは九条さんが素敵な男性だからです。普通誰でも恋人がいると思うのでは無いですか?」「あ、朱莉さん……」(そんな風に言ってくれるってことは……朱莉さんも俺のことをそう言う目で見てくれているってことなんだよな? だが……これは喜ぶべきことなのだろうか……?)琢磨は複雑な心境でカフェ・ラテを飲む朱莉を見つめた。すると琢磨の視線に気づく朱莉。「九条さんは何か好き嫌いとかはありますか?」「いや、俺は好き嫌いは無いよ。何でも食べるから大丈夫だよ」それを聞いた朱莉は嬉しそうに笑った。「九条さんも好き嫌い無いんですね。航君みたい……」その名前を琢磨は聞き逃さなかった。「航君?」「あ、いけない! すみません、九条さん、変なことを言ってしまいました。そ、それじゃもう行きませんか?」朱莉は慌てて、まるで胡麻化すように席を立ちあがった。「あ、ああ。そうだね。行こうか?」琢磨も何事も無かったかの様に立ち上がったが、心は穏やかでは無かった。(航君……? 一体誰のことなんだろう? まさかその人物が朱莉さんと沖縄で同居していた男なのか?それにしても君付けで呼ぶなん
14時―― 朱莉がエントランス前に行くと、すでに琢磨が億ションの前に車を停めて待っていた。「お待たせしてすみません。九条さん、もういらしてたんですね」朱莉は慌てて頭を下げた。「いや、そんなことはないよ。だってまだ約束時間の5分以上前だからね」琢磨は笑顔で答えた。本当はまた今日も朱莉に会えるのが嬉しくて、今から15分以上も前にここに到着していたことは朱莉には内緒である。「それじゃ、乗って。朱莉さん」琢磨は助手席のドアを開けた。「はい、ありがとうございます」朱莉が助手席に座ると、琢磨も乗り込んだ。シートベルトを締めてハンドルを握ると早速朱莉に尋ねた。「朱莉さんは何処へ行こうとしていたんだっけ?」「はい。赤ちゃんの為に何か素敵なCDでも買いに行こうと思っていたんです。それとまだ買い足したいベビー用品もあるんです」「よし、それじゃ大型店舗のある店へ行ってみよう」「はい、お願いします」琢磨はアクセルを踏んだ――**** それから約3時間後――朱莉の買い物全てが終了し、車に荷物を積み込んだ2人はカフェでコーヒーを飲みに来ていた。「思った以上に買い物に時間がかかってしまったね」「すみません。九条さん……私のせいで」朱莉が申し訳なさそうに頭を下げた。「い、いや。そう意味で言ったんじゃないんだ。まさか粉ミルクだけでもあんなに色々な種類があるとは思わなかったんだよ」「本当ですね。取りあえず、どんなのが良いか分からなくて何種類も買ってしまいましたけど口に合う、合わないってあるんでしょうかね?」「う~ん……どうなんだろう。俺にはさっぱり分からないなあ……」琢磨は珈琲を口にした。「そう言えば、すっかり忘れていましたけど、九条さんの会社はインターネット通販会社でしたね?」「い、いや。俺の会社と言われると少し御幣を感じるけど……まあそうだね」「当然ベビー用品も扱っていますよね?」「うん、そうだね」「それでは今度からはベビー用品は九条さんの会社で利用させていただきます」「ありがとう。確かに新生児がいると母親は買い物も中々自由に行く事が難しいかもね。……よし、今度の企画会議でベビー用品のコンテンツをもっと広げるように提案してみるか……」琢磨は仕事モードの顔に変わる。「ついでに赤ちゃん用の音楽CDもあるといいですね。出来れば視聴も試せ
朝食を食べ終わり、片付けをしていると今度は朱莉の個人用スマホに電話がかかってきた。それは琢磨からであった。昨夜琢磨と互いのプライベートな電話番号とメールアドレスを交換したのである。「はい、もしもし」『おはよう、朱莉さん。翔から何か連絡はあったかい?』「はい、ありました。突然ですけど明日帰国してくるそうですね」『ああ、そうなんだ。俺の所にもそう言って来たよ。それで明日香ちゃんの為に俺にも空港に来てくれと言ってきたんだ。……当然朱莉さんは行くんだろう?』「はい、勿論行きます」『車で行くんだよね?』「はい、九条さんも車で行くのですね」『それが聞いてくれよ。翔から言われたんだ。車で来て欲しいけど、俺に運転しないでくれと言ってるんだ。仕方ないから帰りだけ代行運転手を頼んだんだよ。全く……いつまでも俺のことを自分の秘書扱いして……!』苦々し気に言う琢磨。それを聞いて朱莉は思った。(だけど九条さんも人がいいのよね。何だかんだ言っても、いつも翔先輩の言うことを聞いてあげているんだから)朱莉の思う通り、琢磨自身が未だに自分が翔の秘書の様な感覚が抜けきっていないのも事実である。それ故、多少無理難題を押し付けられても、つい言いなりになってしまうことに琢磨自身は気が付いていなかった。「でも、どうしてなんでしょうね? 九条さんに運転をさせないなんて」朱莉は不思議に思って尋ねた。『それはね、全て明日香ちゃんの為さ。明日香ちゃんは自分がまだ高校2年生だと思っているんだ。その状態で俺が車を運転する訳にはいかないんだろう。全く……せめて明日香ちゃんが自分のことを高3だと思ってくれていれば、在学中に免許を取ったと説明して運転出来たのに……』琢磨のその話がおかしくて、朱莉はクスリと笑ってしまった。「でもその場に私が現れたら、きっと変に思われますよね? 明日香さんには私のこと何て説明しているのでしょう?」『……』何故かそこで一度琢磨の声が途切れた。「どうしたのですか? 九条さん」『朱莉さん……君は何も聞かされていないのかい?』「え……?」『くそ! 翔の奴め……いつもいつも肝心なことを朱莉さんに説明しないで……!』「え? どういうことですか?」(何だろう……何か嫌な胸騒ぎがする)『俺も今朝聞いたばかりなんだよ。翔は現地で臨時にアルバイトとして女子大生と
「それじゃ、朱莉さん。次は翔から何か言ってくるかもしれないけど、くれぐれもアイツの滅茶苦茶な要求には答えたら駄目だからな?」タクシーに乗り込む直前の朱莉に琢磨は念を押した。「九条さんは随分心配性なんですね。私なら大丈夫ですから」朱莉は笑みを浮かべた。「もし翔から契約内容を変更したいと言ってきたら……そうだな。まずは俺に相談してから決めると返事をすればいい」するとタクシー運転手が話しかけてきた。「すみません。後が詰まってるので……出発させて貰いたいのですが……」「あ! すみません!」琢磨は慌ててタクシーから離れると、朱莉が乗り込んだ。車内で朱莉が琢磨に頭を下げる姿が見えたので、琢磨は手を振るとタクシーは走り去って行った。「ふう……」タクシーの後姿を見届けると、琢磨はスマホを取り出して、電話をかけた。「もしもし……はい。そうです。今別れた所です。……ええ。きちんと伝えましたよ。……後はお任せします。え? ……いいのかって? ……あなたなら何とかしてくれるでしょう? それだけの力があるのですから。……失礼します」そして電話を切ると、夜空を見上げた。「雨になりそうだな……」**** 翌朝――6時朱莉はベッドの中で目を覚ました。昨夜は琢磨から聞いた翔の伝言で頭がいっぱいで、まともに眠ることが出来なかった。寝不足でぼんやりする頭で起きて、着替えをするとカーテンを開けた。「あ……雨……。どうりで薄暗いと思った……」今日は朱莉の車が沖縄から届く日になっている。車が届いたら朱莉は新生児に効かせる為のCDを買いに行こうと思っていた。これから複雑な環境の中で育っていく子供だ。せめて綺麗な音楽に触れて、情操教育を養ってあげたいと朱莉は考えていた。洗濯物を回しながら朝食の準備をしていると、翔との連絡用のスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。(まさか、翔先輩!?)朱莉はすぐに料理の手を止め、スマホを見るとやはり翔からのメッセージだった。今朝は一体どんな内容が書かれているのだろう? 翔からの連絡は嬉しさの反面、怖さも感じる。好きな人からの連絡なのだから嬉しい気持ちは確かにあるのだが問題はその中身である。大抵翔からのメールは朱莉の心を深く傷つける内容が殆どを占めている。(やっぱり契約内容の変更についてなのかなあ……)朱莉はスマホをタップした。『おは
「本当はこんなこと、朱莉さんに言いたくは無かった。だが翔が仮に今の話を直接朱莉さんに話したとしたら? 恐らく翔のことだ。きっと再び朱莉さんを傷付けるような言い方をして、挙句の果てに、これは命令だとか、ビジネスだ等と言って強引に再契約を結ばせるつもりに違いない。だがそんなこと、絶対に俺はさせない。無期限に朱莉さんを縛り付けるなんて絶対にあってはいけないんだ」琢磨は顔を歪めた。(え……無期限に明日香さんの子供の面倒を? それってつまり偽装婚も無期限ってこと……?)なので朱莉は琢磨に尋ねた。「あの……それってつまり翔さんは私との偽装結婚を無期限にする……ということでもあるのですよね?」(そうしたら、私……もう少しだけ翔先輩と関わっていけるってことなのかな?)しかし、次の瞬間朱莉の淡い期待は打ち砕かれることになる。「いや、翔の言いたいことはそうじゃないんだ。当初の予定通り偽装婚は残り3年半だけども子育てに関しては明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで続けて貰いたいってことなんだよ」「え……?」「つまり、翔は3年半後には契約通りに朱莉さんと離婚して、子供だけは朱莉さんに引き続き面倒を見させる。しかも明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで、無期限にだ。こんな虫のいい話あり得ると思うかい?」「……」朱莉はすっかり気落ちしてしまった。(やっぱり……ほんの少しでも翔先輩から愛情を分けて貰うのは所詮叶わないことなの? でも……)「九条さん」朱莉は顔を上げた。「何だい」「私、明日香さんと翔さんの赤ちゃんを今からお迎えするの、本当に楽しみにしてるんです。例え自分が産んだ子供で無くても、可愛い赤ちゃんとあの部屋で一緒に暮らすことが待ちきれなくて……」「朱莉さん……」「九条さん。もし、子供が3歳になっても明日香さんが記憶を取り戻せなかった場合は、翔さんは私に引き続き子供を育てて欲しいって言ってるわけですよね? それって……翔さんは記憶の戻っていない明日香さんにお子さんを会わせてしまった場合、お互いにとって精神面に悪影響が出るのではと苦慮して私に預かって貰いたいと思っているのではないでしょうか? だって、考えても見てください。ただでさえ10年分の記憶が抜けて自分は高校生だと信じて疑わない明日香さんに貴女の産んだ子供ですと言って対面させた場合、明日香さんが正常でいられると
明日香が10年分の記憶を失い、高校生だと思い込んでいる話は朱莉にとってあまりにもショッキングな話であった。「朱莉さん、大丈夫かい? 顔色が真っ青だ」「は、はい。大丈夫です。でもそうなると今一番大変なのは翔先輩ではありませんか?」朱莉は翔のことが心配でならなかった。あれ程明日香を溺愛しているのだ。17歳の時、翔と明日香は交際していたのだろうか? ただ、少なくとも朱莉が入学した当時の2人は交際しているように見えた。「朱莉さん、翔が心配かい?」琢磨が少し悲し気な表情で尋ねてきた。「はい、とても心配です。勿論一番心配なのは明日香さんですけど」「やっぱり朱莉さんは優しい人なんだね」(あの2人に今迄散々蔑ろにされてきたのに……それらを全て許して今は2人をこんなに気に掛けて……)「何故翔さんは九条さんに連絡を入れてきたのですか? それに、どうして九条さんから私に説明することになったのでしょう?」朱莉は琢磨の瞳をじっと見つめた。「俺も、2日前に翔から突然メッセージが届いたんだよ。あの時は驚いた。翔と決別した時に、アイツはこう言ったんだよ。互いに二度と連絡を取り合うのをやめにしようと。こちらとしてはそんなつもりは最初から無かったけど、翔がそこまで言うのならと思って自分から二度と連絡するつもりは無かったんだ。それなのに突然……」そして、琢磨は近くを通りかかった店員に追加でマティーニを注文すると朱莉に尋ねた。「朱莉さんはどうする?」「それでは私はアルコール度数が低めのお酒で」「それなら、『ミモザ』なんてどうかな? シャンパンをオレンジジュースで割った飲み物だよ。アルコール度数も8度前後で、他のカクテルに比べると度数が低い」琢磨はメニュー表を見ながら朱莉に言った。「はい、ではそちらを頂きます」「かしこまりました」店員は頭を下げると、その場を立ち去っていく。すると琢磨が再び口を開いた。「明日香ちゃんは自分を高校生だと思い込んでいるから、当然翔の隣にはいつも俺がいるものだと思い込んでいるらしいんだ。考えてみればあの頃の俺達はずっと3人で一緒に高校生活を過ごしてきたようなものだからね。それで明日香ちゃんが目を覚ました時、翔に俺のことを聞いてきたらしい。『琢磨は何処にいるの?』って。それで一計を案じた翔が明日香ちゃんを安心させる為に、もう一度3人で会いた
「九条さんが【ラージウェアハウス】の新社長に就任した話はニュースで知ったんです。あの時九条さん言ってましたよね? 鳴海グループにも負けない程のブランド企業にするって」「ああ、あの話か……。あれは……まあもう1人の社長にああいうふうに言えって半ば命令されたからさ。自分の意思で言った訳じゃ無いが正直、気分は良かったな」琢磨は笑みを浮かべる。「あの翔に一泡吹かせることが出来たみたいだし。初めはテレビインタビューなんて御免だと思ったけどね。大分、翔の奴は慌てたらしい」朱莉もカクテルを飲むと琢磨を見た。「え? その話は誰から聞いたんですか?」「会長だよ」琢磨の意外な答えに朱莉は驚いた。「九条さんは会長と個人的に連絡を取り合っていたのですか?」「ああ、そうだよ。実は以前から会長に秘書にならないかと誘われていたんだ。でも俺は翔の秘書だったから断っていたんだけどね」「そうだったんですか」あまりにも驚く話ばかりで朱莉の頭はついていくのがやっとだった。「それにしても朱莉さんも随分雰囲気が変わったよね? 前よりは積極的になったようだし、お酒も飲めるようになってきた。……ひょっとして沖縄で何かあったのかい?」琢磨の質問に朱莉は一瞬迷ったが、決めた。(九条さんだって話をしてくれたのだから、私も航君のこと、話さなくちゃ)「実は……」朱莉は沖縄での航との出会い、そして別れまでを話した。もっとも名前を明かす事はしなかったが。一方の琢磨は朱莉の話を呆然と聞いていた。(まさか朱莉さんが男と同居していたなんて。しかもあんなに頬を染めて嬉しそうに話してくるってことは……その男、朱莉さんに取って特別な存在だったのか?)朱莉が沖縄で男性と同居をしていた……その事実はあまりに衝撃的で、琢磨の心を大きく揺さぶった。「それでその彼とは東京へ戻ってからは音信不通……ってことなのかい?」内心の動揺を隠しながら琢磨は尋ねた。「はい。そうです。だから条さんとは連絡が取れて嬉しかったです。ありがとうございました」お酒でうっすら赤く染まった頬ではにかみながら琢磨にお礼を言う朱莉の姿は琢磨の心を大きく揺さぶった。「そ、そんな笑顔で喜んでくれるなんて思いもしなかったよ。でも……そうか。朱莉さんが以前よりお酒を飲めるようになったのはその彼のお陰なんだね?」「そうですね……。きっとそう